大熊町へ行って
【当法人スタッフと同行して頂いた方からの寄稿です】
はじめに
これは京都に住む私が、震災から3年半経った福島へ初めて行った時のことを書いたものです。福島の方や交流会で活動されている方には、今更…なことばかりかもしれません。
身内に大熊町出身がいるため、震災や原発の情報は気にしているつもりだった私ですが、今回実際に現地へ入って地元の方の話を聞いて、感じたことを書かせていただきます。
秋晴れという言葉がぴったりな日に、福島県へ行ってきました。移動中、初めてその地を訪ねる私にとっては落ち着いた風景に見える所が、地元の方や震災直後を見ている支援員の方は、それがいかに復興された状況かわかっていました。
2週間前から全線開通となったこともあってか、国道6号線を走る車も少なくない中、目的の大熊町へ近づくとテレビでよく見る封鎖のバリケードが出てきました。
防護服を着て、町内へ入るとその光景は田舎だからとか人が少ないからとは全く違った、時の止まった世界でした。
人が住まなくなった家の庭木は自由に枝葉を伸ばし、家具が倒れガラスが散乱する室内は、放射線の被害だけでなく、地震がどれほど凄まじいものであったかが伝わってきました。
小学校では、机の上に教科書が開いたままランドセルも置いたまま…。もう教室に戻ってこられないなど誰も思わず、先生も生徒もわけのわからないままの避難だったのでしょう。
海や川だけ見れば、晴れ渡る空に波の音、草木の緑、川には水鳥。深呼吸したくなるような景色です。目に見えない匂いもない放射線のことを忘れてしまう程でした。
ここで生まれ育ったあの人はこの現状を見てどう思うのか、聞くことも酷に思えました。
県内各地で放射線の数値を計りました。地面からの高さや風通りなど少し条件が違うだけで数値は変化します。事故後国が基準としたのが年間20ミリシーベルト、計測器の表示は毎時マイクロシーベルト。数値が高くなるほど危険であることは分かっても、手元の計測器でいくら以上が基準超えとなるのかすぐに分かりませんでした。県内の住民はその数値に神経を尖らせ、体への影響、子供の将来、錯綜する情報に悩まされ、避難、仕事、金銭問題と生活が一変する問題と向き合っているのに。私だったらどうするか、考えても結局答えは出ず、また答えを出さずにいても自分の生活に支障はないことが、被災地から離れた所にいる者の感覚なのだと思い知らされました。
県内を巡り、福島県の中でも各市町村によって住民が思う不安や怒りが少しずつ違うことが分かりました。行き場のない思いは、時に何の罪もない住民に向けられることもあると知りました。放射線量の違い、補償内容の違いなど被害の差が出るように、地元の人にとっては「被災者」と一括りにできる問題ではないようです。
さいごに
今回、関西浜通り交流会の方と初めて話をし、驚くことがたくさんありました。
まず、支援員の方は東北出身者か震災の被災者かその知人など、何かしら東北と関係があって活動されているのだと思っていました。しかしこの活動のきっかけを聞いてみると、特にこれまで東北との関係はない人たちから始まっていたのです。しかも、仕事を持ち家庭もある中でなんとか都合をつけ、京都内の活動だけでなく県外各地へ足を運んでいるのです。
会社や家族に理解があったからではなく、普段以上の成果を出す、下準備をしっかりするといった理解してもらうための行動をしているのです。
仕事があることを言い訳に何も行動せず、テレビを見ただけで現地のことをわかったように思っていた自分が恥ずかしくなりました。
震災から3年半、道路や鉄道など物質的な復興は進み、反面、ボランティア活動や地域のコミュニティが薄れていく中、浜通り交流会の活動は人との出会いや繋がりを作り出しています。今後も参加者の輪が広がるよう、支援員の皆様のご活躍を願っております。
はじめに
これは京都に住む私が、震災から3年半経った福島へ初めて行った時のことを書いたものです。福島の方や交流会で活動されている方には、今更…なことばかりかもしれません。
身内に大熊町出身がいるため、震災や原発の情報は気にしているつもりだった私ですが、今回実際に現地へ入って地元の方の話を聞いて、感じたことを書かせていただきます。
秋晴れという言葉がぴったりな日に、福島県へ行ってきました。移動中、初めてその地を訪ねる私にとっては落ち着いた風景に見える所が、地元の方や震災直後を見ている支援員の方は、それがいかに復興された状況かわかっていました。
2週間前から全線開通となったこともあってか、国道6号線を走る車も少なくない中、目的の大熊町へ近づくとテレビでよく見る封鎖のバリケードが出てきました。
防護服を着て、町内へ入るとその光景は田舎だからとか人が少ないからとは全く違った、時の止まった世界でした。
人が住まなくなった家の庭木は自由に枝葉を伸ばし、家具が倒れガラスが散乱する室内は、放射線の被害だけでなく、地震がどれほど凄まじいものであったかが伝わってきました。
小学校では、机の上に教科書が開いたままランドセルも置いたまま…。もう教室に戻ってこられないなど誰も思わず、先生も生徒もわけのわからないままの避難だったのでしょう。
海や川だけ見れば、晴れ渡る空に波の音、草木の緑、川には水鳥。深呼吸したくなるような景色です。目に見えない匂いもない放射線のことを忘れてしまう程でした。
ここで生まれ育ったあの人はこの現状を見てどう思うのか、聞くことも酷に思えました。
県内各地で放射線の数値を計りました。地面からの高さや風通りなど少し条件が違うだけで数値は変化します。事故後国が基準としたのが年間20ミリシーベルト、計測器の表示は毎時マイクロシーベルト。数値が高くなるほど危険であることは分かっても、手元の計測器でいくら以上が基準超えとなるのかすぐに分かりませんでした。県内の住民はその数値に神経を尖らせ、体への影響、子供の将来、錯綜する情報に悩まされ、避難、仕事、金銭問題と生活が一変する問題と向き合っているのに。私だったらどうするか、考えても結局答えは出ず、また答えを出さずにいても自分の生活に支障はないことが、被災地から離れた所にいる者の感覚なのだと思い知らされました。
県内を巡り、福島県の中でも各市町村によって住民が思う不安や怒りが少しずつ違うことが分かりました。行き場のない思いは、時に何の罪もない住民に向けられることもあると知りました。放射線量の違い、補償内容の違いなど被害の差が出るように、地元の人にとっては「被災者」と一括りにできる問題ではないようです。
さいごに
今回、関西浜通り交流会の方と初めて話をし、驚くことがたくさんありました。
まず、支援員の方は東北出身者か震災の被災者かその知人など、何かしら東北と関係があって活動されているのだと思っていました。しかしこの活動のきっかけを聞いてみると、特にこれまで東北との関係はない人たちから始まっていたのです。しかも、仕事を持ち家庭もある中でなんとか都合をつけ、京都内の活動だけでなく県外各地へ足を運んでいるのです。
会社や家族に理解があったからではなく、普段以上の成果を出す、下準備をしっかりするといった理解してもらうための行動をしているのです。
仕事があることを言い訳に何も行動せず、テレビを見ただけで現地のことをわかったように思っていた自分が恥ずかしくなりました。
震災から3年半、道路や鉄道など物質的な復興は進み、反面、ボランティア活動や地域のコミュニティが薄れていく中、浜通り交流会の活動は人との出会いや繋がりを作り出しています。今後も参加者の輪が広がるよう、支援員の皆様のご活躍を願っております。
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